ストロングゼロ文学が鳴らす警鐘、現代の闇を照らす一筋の光

「酒が無くて何の己が桜かな」どんなに綺麗な桜が咲いていたとしても、酒がなければ花見もおもしろいものにはならない。という意味の諺が日本には存在する。酒が無くて、何が楽しいんだって意味。この命題に対して対偶を考えると、「楽しいのは全て、酒があるから」。それでは、「楽しくないのは、酒がないからなのか?」

さて、最近になり巷ではストロングゼロが大流行りしているようだ。それもそのはず、ストロングゼロ500mlを換算してみると、缶ビール3缶、瓶ビール1.5本、日本酒1.5合、テキーラショット4杯に相当するのである。驚異的な数字である。

よくよく考えてみよう、あまり缶チューハイで飲み比べなどしないと考慮すると、缶は一度開けるとその人が全て飲む必要性がある。つまり、ストロングゼロ1巻を開けた人間は瓶ビール1.5本分(テキーラショット4杯分)のアルコールを知らず知らずの内に摂取しているのである。ただ、世の中にはそれを知りながらも、ストロングゼロを口に運ばずにはいられない人々がいる。

それを皮肉った「ストロングゼロ文学」というのが最近のミームである。「飲む福祉」と呼ばれるよう、ストトロングゼロを飲み人たちを底辺かのように捉え、過去の文学に落とし込んでいく。実際それがネット界隈で受けているのだから、共感・賛同する人たちが多いのだろう。

しかし、人々がストロングゼロ大喜利する現実は、現代の闇を照らしているのではないだろうか。飲まずにはいられない人たちに負い目はない、むしろそんな人たちをなくすためには、と働きかける人たちが増えてきて欲しい。そう思いながら、私はストロングゼロを喉に流し込むのである。

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実際面白いよね、ストロングゼロ文学。飲みながら読むと、自虐してるみたいで一層高ぶる。