003:死ぬのは怖いが、生きるのも怖い

「死ぬのは怖いが、生きるのも怖い」

 

いつからか私は怖がりになっていた。最初の頃は幼稚園の頃だったか、夜中お手洗いに行きたくても部屋が暗く、便所までの道のりに大きな恐怖を覚えたものだった。小学生の頃は近所のおじさんだったか、道ですれ違うだけで理由なく怒鳴られたものだ。中学高校とは部活で顧問及び同級生に恐怖を感じていた。顧問に対してはただひたすら怒られる恐怖から避けていたし、同級生からは実力で負けたくないからこそ、直接の勝負を避けていた。

こうやっていろんなものに怯えていた幼少期・10代であったが、20代に入り怯えるものの対象が変わった。死が怖いのだ。死とは全ての終わりである。0になる。それがどれだけ怖いものか。私はその恐怖から必死に逃れるために、目の前のタスクをこなし、興味に意識を傾けてきた。そうすれば一時的ではあるが忘れられる。しかし、「死」は生きとし生けるものに皆平等に存在し、いずれは無になる。私は死が怖い。

正確に描写すると、死んだ後のことを考えるのが怖い。みなさん考えてみてください、死ぬとどうなるか。無になります、分かりますか。無になるとどうなるでしょう、どうにもならないんです。会社では嫌なことがあっても、なんとか対処したり、目を背けたり、打つ手は無限にあります。でも、無はどうでしょう。0なんです。打つ手無いんです。考えることができない、そんな状態から考える状態に映ることなんて不可能なんです。想像できますか。ありえない状態、それが生物に総じて存在するのです。

人間は無駄に知識を手に入れてしまった。意思疎通するための正確な言語や、資本主義を体現するための貨幣制度、電子世界。それらは死を表現するためのツールにしか、ならないんです。おそらく動物は死に対して恐怖を抱けても、死後の世界に恐怖できないだろう。なぜなら、表現するすべを持っていない、無と言う概念が存在していないから。

死後の世界に怯えるくらいなら、生きるのをやめたい。そう思った時期もある。夜中にくらい部屋で一人怯えて、紛らわすために叫んで、目を逸らすために酒を口に運び。そうやって生き苦しむ生活なんの価値があるのだろうか。何が何だか分からなくなったことがあった。分かる人なんているのだろうか、人間はどう足掻いても、いづれ死んでしまうのに。

しかし、はっきりと意見を述べよう。今、私はそれでも生きようと考えている。苦しんだっていいのだ。死んでしまえば全てが0になるが、生きて入れば選択肢がある。そう考えるだけで少し気持ちが楽になったからだ。

頑張ってお金を稼いでいる人を見れば死から目を背けてるのかな、なんて思うことがあるが羨ましいなと思う。楽しむことは、死を恐ることから対極に位置しており、楽しめば楽しむほど、色んな選択肢も増えよう。一旦増えてしまえば、死後の世界が怖いと言うファクターなんて千分の一、いや一万分の一くらいのちっぽけな存在になってしまう。どんどん生きることを楽しんで、どんどん死から目を離そう。(1234文字)

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悩み始めたら止まらないのが、この「死後の世界」に関すること。本当に考えるだけで、頭がおかしくなりそうなのでこの変でやめます。どんどん生きることを楽しんで、どんどん死から目を離そう。本当にそれができれば、いいんですけどね。