001:何か一芸秀でた人に、私は酷く醜い嫉妬を覚える

「何かに一芸秀でた人、私は酷く醜い嫉妬を覚える」

どうして私には一芸秀でたものがないのだろうかと、ひたすらに悩んだ時期がある。どうして私には、他人に誇れるものがないのだろうか。人1倍の承認欲求だけが膨れ上がり、私の気持ちを押しつぶそうとする。いや、実をいうと秀でたものはいくつくあるのだ。ちゃんと自覚もある。それでも尚、人の一芸に醜い嫉妬を覚えるのか。

それは人に「見せれる」一芸ではなく、見せると少し恥じらいを感じてしまうからだ。いわゆる一般的な芸ではなく、むしろマイナーの部類に含まれるだろう。そういったものは他人から評価される際に、背景情報から説明せざるを得なく、その結果、中途半端な評価に成り下がることが多々ある。それでは満足できない。もっとたくさんの人から一様に、強い賞賛を求めているのだ。どういった一芸を身につけることができれば承認欲求が満たされるのか、今一度確かめてみたい。

例えば「匂いを嗅いだだけで、日本中どこのカレー屋のカレーか判断できる」一芸を取り上げてみる。おそらく日本中、いや世界中でオンリーワンの一芸になるのだろう。必ず他者からは賞賛され、大きくメディアに取り上げられるかもしれない。ただ私が必要とする承認欲求はこれではない。友達に欲しい止まりである。なぜなら、特殊すぎるが故に「他者」との共感が存在し得なく、「他者」との議論が不可能であり、「他者」との比較が不可能だからである。書いていて気がついたが、私の承認欲求には「他者」の役割が非常に大きい。それこそ承認欲求の根幹であり、求めていたものではないだろうか。

それでは「絵が上手く描ける」一芸を獲得したとしよう。他人から賞賛もされ、運が良ければ商業化に焚きつけることも可能である。これはどうか。このような技能は日本中見渡しても、何千人、何万人といるに違いない。オンリーワンの技能ではなく、一般的な一芸とみなせるだろう。そうだ私の求めている一芸は、一般的な一芸なのだ。そう気付く。普遍的な一芸はあたかも聴衆からは重要視されないが、いわゆるセンスというものが必要になる。センスを言語化することは難しい。経験と知識、運などに左右されてしまう不確定パラメータであるが故に、多くの人たちが追い求める。そうだ私は一般的な人に賞賛される一芸が欲しい。

しかし、普遍的な一芸は身に付け難く、長い年月の鍛錬と惜しみない時間投資が必要になる。一朝一夕で得られるものは、それは他人に披露できる一芸ではない。四半世紀生きてきてようやく気づいた。遅すぎたことはない。むしろ早く気付けて良かったと自分を褒めてやりたい。そうでもなければ、残り半世紀ほどの人生を棒に振るところであったのだから。ようやくスタートラインにたどり着けた。改めて、今一度、私自身を省みて、何が好きで、何が嫌いで、どうすれば続けられて、どうすれば…という思考プロセスを繰り返し、自分に合う普遍的な一芸を身に付けたい、そう思った冬の昼下がりであった。

ここで、終わらせてしまうのは非常に惜しい、1,000文字を超える入力した指は微かに暖かくまるで、舌の回る落語家のようだ。このまま自己分析ではないが、自分が何がやりたいかをこの記事に載せたいと思ったが、恥ずかしさが前に出てきた。匿名が売りのこのインターネット社会で、どうして恥じらいの感情が生まれてしまうのか。それは私自身の人間性であるのかと、そう思った昼下がりであった。(1416文字)

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この記事は30分でどれくらいタイピングできるか、文章構成は如何なものか、テストしてみたくて題材も無しにパソコンに向かってカタカタと入力してみた次第です。1416文字か、まだまだタイピングがおぼつかないのと、書きたいことをスラスラのべるのがこれまで難しいのかと、思いました。少なくとも「背景、主文、まとめ」の構成、「起承転結」の構成はギリギリ最低ラインは保てたのかなと思う。そう考えると、最初の5分間は構成を考える時間に当てた方がいいのかもしれない。次描く時は、それを意識して書いてみよう。