004:夜明けと共に忍び寄る希望と絶望、晩御飯に食べたいのは魴鮄と牛蒡

「夜明けと共に忍び寄る希望と絶望、晩御飯に食べたいのは魴鮄と牛蒡」

朝がやってきた。朝日と共に目が覚めるのは、本当に清々しい気分になれる。「今日も一日やってやろうじゃないか。」そうやって布団からおり、コーヒーを飲む。私はもっぱら缶コーヒー派なので、「カシャッ」とプルトップをを開ける。鶏の鳴き声ではないが、歯切れの良い開封音が部屋に響き渡り、朝を迎い入れる準備が出来上がる。そうだ、朝がやってきたのだ。

副交感神経を刺激させ、完全に目を冷ますためにシャワーを浴びる。お気に入りのシャンプーとリンス、ボディソープの香りが鼻から脳へと伝わるこの瞬間が堪らない。シャワーから出ると部屋は少し寒いが、身体は十分に温まっている。さっき飲んだコーヒーの糖分が回ってきた。(人間の糖分吸収の速度はそこまで早くないので、気のせいなのは間違いないが)そうして今日の仕事について、意識をシフトさせていく。

絶望しかない。どうしてあの使えない上司と顔を合わせなければならないのか。どうしてあの上司に媚びへつらう、あの後輩を指導しなければならないのか。どうして給料が少ないのに、こんなに辛い思いをしなければならないのか。どうしてあのつまらない飲み会の幹事を任されているのだろうか。これはドライヤーの熱なのか分からないが、頭が熱くなってくる。どうして、どうして、どうして。

朝のニュースは、また芸能界の話をしている。私たちは芸能界で働いているのではなく、会社の歯車として働いでいるのだ。芸能界の話なんて必要ない、小話にすらなり得ない。関係ないのだから。もっと会社とはこうあるべきだ、こういう会社もあるのだ、そんな社会的なメッセージを訴える番組はないのか。ああ、どうして、どうして。

気がつけば、満面の笑みで働く自分がいるのだろう。先程までの反吐が出るような感情は通勤途中に落としてしまって。必要のない感情を落とす癖がついてしまっているのだろうか。「はい喜んで、こちらで対処いたします。(自分でやれよクソヤロウ)」「了解しました、善処します。(これが限界だと、どうして分からないのか)」「どうかご贔屓にお願いいたします(どうして私が頭を下げないといけないのか)」

言動と感情が裏返る日も遠くないだろう。現代人の抱えるストレスは大きく膨れ上がり、支えきれなくなっている。朝の希望はどこへ消えてしまったのか、朝の絶望はどこかへ飛ばせないだろうか。私の「望」は何なのだろうか。そんな時、夜ご飯に渇望を見出すのが私なりの自己マネジメントである。

ぼうぼう、ぼうぼう。そういや「ぼう」が後ろにつく食べ物、料理って何かあるかな。魚の魴鮄(ホウボウ)と牛蒡(ゴボウ)は何とか思いついた。そうか和食料理、割烹料理に行けば、何とかありつけそうな食材達だ。しょうがない、少し疲れている自分のために奮発してやろう、頑張れ明日の自分。(1177文字)

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土曜日の朝は清々しいですね。皆さんゆっくり休息をとって、英気を養ってください。私は会社に行きます。今日の夜は絶対に美味しいもの食べてやる。

003:死ぬのは怖いが、生きるのも怖い

「死ぬのは怖いが、生きるのも怖い」

 

いつからか私は怖がりになっていた。最初の頃は幼稚園の頃だったか、夜中お手洗いに行きたくても部屋が暗く、便所までの道のりに大きな恐怖を覚えたものだった。小学生の頃は近所のおじさんだったか、道ですれ違うだけで理由なく怒鳴られたものだ。中学高校とは部活で顧問及び同級生に恐怖を感じていた。顧問に対してはただひたすら怒られる恐怖から避けていたし、同級生からは実力で負けたくないからこそ、直接の勝負を避けていた。

こうやっていろんなものに怯えていた幼少期・10代であったが、20代に入り怯えるものの対象が変わった。死が怖いのだ。死とは全ての終わりである。0になる。それがどれだけ怖いものか。私はその恐怖から必死に逃れるために、目の前のタスクをこなし、興味に意識を傾けてきた。そうすれば一時的ではあるが忘れられる。しかし、「死」は生きとし生けるものに皆平等に存在し、いずれは無になる。私は死が怖い。

正確に描写すると、死んだ後のことを考えるのが怖い。みなさん考えてみてください、死ぬとどうなるか。無になります、分かりますか。無になるとどうなるでしょう、どうにもならないんです。会社では嫌なことがあっても、なんとか対処したり、目を背けたり、打つ手は無限にあります。でも、無はどうでしょう。0なんです。打つ手無いんです。考えることができない、そんな状態から考える状態に映ることなんて不可能なんです。想像できますか。ありえない状態、それが生物に総じて存在するのです。

人間は無駄に知識を手に入れてしまった。意思疎通するための正確な言語や、資本主義を体現するための貨幣制度、電子世界。それらは死を表現するためのツールにしか、ならないんです。おそらく動物は死に対して恐怖を抱けても、死後の世界に恐怖できないだろう。なぜなら、表現するすべを持っていない、無と言う概念が存在していないから。

死後の世界に怯えるくらいなら、生きるのをやめたい。そう思った時期もある。夜中にくらい部屋で一人怯えて、紛らわすために叫んで、目を逸らすために酒を口に運び。そうやって生き苦しむ生活なんの価値があるのだろうか。何が何だか分からなくなったことがあった。分かる人なんているのだろうか、人間はどう足掻いても、いづれ死んでしまうのに。

しかし、はっきりと意見を述べよう。今、私はそれでも生きようと考えている。苦しんだっていいのだ。死んでしまえば全てが0になるが、生きて入れば選択肢がある。そう考えるだけで少し気持ちが楽になったからだ。

頑張ってお金を稼いでいる人を見れば死から目を背けてるのかな、なんて思うことがあるが羨ましいなと思う。楽しむことは、死を恐ることから対極に位置しており、楽しめば楽しむほど、色んな選択肢も増えよう。一旦増えてしまえば、死後の世界が怖いと言うファクターなんて千分の一、いや一万分の一くらいのちっぽけな存在になってしまう。どんどん生きることを楽しんで、どんどん死から目を離そう。(1234文字)

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悩み始めたら止まらないのが、この「死後の世界」に関すること。本当に考えるだけで、頭がおかしくなりそうなのでこの変でやめます。どんどん生きることを楽しんで、どんどん死から目を離そう。本当にそれができれば、いいんですけどね。